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 私は今でこそ考察などのblogをやっておりますが、それまではどちらかといえば創る側の人間でした。売れてたとか人気が有ったと言うことではなく、自己満足の範囲ですが創作が楽しかったし、ずっと続けていくものだと思っていた。

 けど、それは突然終わってしまった。そこまでは当然のように延びていた線路が突然切れて先がなくなってしまったような感じで。陸は続いてる、崖ではない。でも確かなどこかを目指していた線路が突然途切れてしまって戸惑った、戸惑っている。

 原因の一つは自分の身の周りへの関心が薄れたたことだろうと思います。恋愛にも、友情にも。そこへの想いを、ひたすら創作にぶつけていた自分が居たんだと初めて気付きました。でも、気付いたからといって想いが蘇る訳じゃない。そんなに簡単なことじゃない。

 創作は好きだった。時間を忘れて夢中になった。泣くような辛さも笑い足りない楽しさも、心に残せたのは創作があったから。逆に考えれば今の自分には心に残したいだけの何かが無いとも言える。それはあんまりにも寂しいよ、寂しすぎる。だから、取り戻したいなと思う。だから、エロゲをやっているのかも。

 音楽映画小説漫画ライトノベルにゲームetc、どれもが素晴らしい創作だ。けれど、エロゲほど長い時間を共に過ごせる創作はそうない。ADVという形式の最大の武器は、その分量。プレイ時間。長いものであれば50時間、60時間。それだけの時間、世界に浸っていれば同じ言葉でも重みが違ってくる。生きてきた分だけ重くなるものが有るように、作品を読む上でもそれは恐らく同じなのだ。そうして読み進めるクライマックスは、どの創作よりも胸に沁みるんじゃないだろうか。深く、心に突き刺さったなら、自分が諦めてかけている何かが再び燃え上がるんじゃないだろうか。

 そんな風に思うから、私はエロゲを選び、続けるのかもしれない。ですが、実際にプレイに移るにはプレイを持続できるだけの集中力と継続する為の連続した時間が必要です。そうなるとなかなかベストな状態って無い訳ですよ。ということで続きの話をその内書こうと思います。お題は「アニメが原作を超えるとき」です。どうぞご贔屓に~。



 関連記事:Re:Re:Re: 作品を通し探したい自分、語りたい言葉
記憶とは

色褪せるもの

忘れるもの

失くしたくないもの



blogとは

綻びを繋ぐもの

想いを留まらせるもの

夕日の照り返しを受けた海は とてもまぶしくて
少し冷たい風が心を切なくした
(―セイリング/WHITE-LIPS)


 海を見る度切ない気持ちになる。そんなのってマイノリティなんでしょうかね?私は幼少の頃から身近に海ってのがなくて、更には海へ行く機会も少なくて、だからなのか羨望に近い眼差しで見てしまったりするんですよね。羨望ってのは海で楽しそうに笑っている人に対して、か。自分にとって海という場所は得られなかった何かを探す場所なんですよね。

 
 靴を脱いで波打ち際へ。「つめてー!」なんて言ってはしゃぐ。そんな当たり前とも言える光景が私には眩しい。

 よく考えれば映画やドラマ、小説に漫画、勿論エロゲだって得られなかった何かを探そうとしたり思い出を追いかけるために視聴するんだよな、と。当たり前のことかもしれませんが思いました。現実にはありえない世界観でも、その中にいる人間はそんなに変わらなかったりして、だからこそ共感して思い出すことがあったり、発見があったり。

 エロゲーは低くみられることが多いですけど、私は泣くことだってありますし、笑うことだってあります。それは自分のどこかを豊かにしているんだろうと思いますし、これかれもそうであって欲しいなぁ。

 なんてことを考えた一日でした。



 追伸:
 最近写真を撮る機会が減り続ける一方で、どんどん写真を撮るのが下手になっていってるように感じます。何事も反復!ですねぇ。blogもきっと同じことが言えるんでしょう。一つずつ確かに、満足できるように生きておきたいものです。(なんか今日の記事重いような……)
 僕が作品について何か語ろうと思うとき、気をつけていることがあります。それは「肯定的であること」です。否定するのは簡単だと言う言葉もありますね。だからって訳じゃないですが、できる限り肯定的でありたいと考えています。

 しかし、否定的であることはblogにとって一つのステータスではないかと思います。例えば良作と騒がれている作品を酷評すること。そうすることで作品のファンは結構目を奪われてしまうもの。「どこが悪かったっていうんだ」というような疑問を浮かべてしまうからです。良いと呼ばれている作品の酷評ほど読者を集めるんじゃないでしょうか。人気blogへの一つの道と言えるかもしれませんね。まぁ、例えばです。例えば。

 上記したことは極端ではありますが、完璧な作品と言うのは存在しないもの。読者が人である限り、完璧な作品など生まれません。作品を評するときにぶつかり合う個人個人の価値観。完璧なものを創り上げるためには完璧な価値観というのをまず作り上げる必要があるからです。勿論そんなこと不可能ですから、完璧な作品なんて生まれるはずは無いんです。

 ですが一人の人間にとって完璧、若しくは完璧に近い作品というものは存在しうる。そして誰もがそれを知らず知らずの内に追い求める。それと出会った人は、生まれ続ける作品の波から遠ざかってしまうこともあるでしょう。でもその時までは追い求め続けられる。私もその内の一人です。

 今日もまた遅々たる歩みで物語の中へ足を踏み入れる。何かを感じて悦んだり悲しんだりする。そして何かを残そう、伝えようとblogに綴る。それを繰り返す間「否定」という要素はあるべきものなのだと思います。なので、何かを否定することを恐れているブロガーさんがいたのなら、怖がらずに否定してみて下さい。と言いたい。勿論伴うリスクは応じてあると思います。ですが、何かを否定することは自然なことなんです。

 なので僕も、肯定的であろうと思いながら否定もします。いつか全てを肯定し、満点だといえる作品とであえたならば、blogを書くことを止めてしまうかもしれません。それは明日かもしれないし、死ぬまでないかもしれない。でもそれまでは追い求め続けようと思います。否定を繰り返しながら。
 止めるのは、いつだってできる。だから、続けようと思う。
 (―キノの旅Ⅰより.)

 blogに限らず何かに行き詰ったとき、もう止めてしまおうか……と思ったとき、上の言葉を思い出すようにしています。せっかく始めたんです。簡単に終わりにはしたくありません。それにblogのエントリー一つにかけた時間……私は超が付く遅筆なので馬鹿になりません。それを不意にしてしまうようなことはしたくないと思います。だから、続けようと思えます。続けた期間が長ければ長い分だけ、背中を押してくれる力も大きくなるんじゃないでしょうか。

 また、長く何かを書いている内に気になるものなんかも変わってくるのが自然ではないでしょうか?私もエロゲについて熱く語るようになったのは遂最近のことです。変わっていくことに逆らわずに居たい。自分が気になること、追いかけたいことだけを追いかけたい。なんて思うことも大切なんじゃないかと思っています。世間で話題のニュースを取り扱うことで、一時的なアクセスアップは望めるかもしれません。でもそれで自分が楽しくなかったら、本末転倒ですよね。あくまで楽しく!これもかなり大切だと思います。そうすることで、もっともっと良い記事が書けるようになるんじゃないかと思っています。(私みたいなマイナーサイトでこんなこというのも憚られますが)

 それに好いこともあるかもしれません!私はネットを始めて数年ずっとHPかblogかををやっていましたが、先日初めての体験をしました。それはニュースサイトさんに取り上げて頂いたということです。それを切欠に沢山の人がblogを見に来てくれました。こんなに嬉しいことはなかなかないです。この場を借りて取り上げて頂いたサイトさんに御礼を言いたいと思います。カトゆー家断絶さん、ふぇいばりっとでぃずさん、独り言以外の何かさん、ニトロ有線式さん、TenTative Name.さん、かーずSPさん、てきとうなものさん、Type a partさん、本当にありがとうございました!

 blogに限らず、ネットをやっていれば色んなことがある。
 だから、続けたい。止めるのは、いつだってできる。